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足助の町並みは、平成23年6月に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。愛知県では何番目の選定でしょうか?

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足助の町並みは、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。選定されたのは、三河と信州を結ぶ伊那街道(中馬街道)の中継地として栄えた足助の中心地全長1.4km、21haです。今も町並みには江戸時代中期から明治時代に建てられた建物が多く残っています。町並みのなかで、江戸時代中期~明治時代に建てられた建物は、全体の何%を占めるでしょうか。

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足助の町並みの街道は信州へ至る生活物資を運ぶ道として、大変重要な役割を果たしていました。その街道を物資輸送用の馬が往来したことから「中馬街道」と呼ばれていました。また、生活に欠かせない重要な物資が運ばれたことから由来する道の通称もあります。その名前は何でしょうか。

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足助の町の発展の基礎は、塩運搬の中継地の役割に由来します。矢作川を利用して運ばれてきた塩は、産地によって一俵の重さが異なっていたので、運びやすいよう同じ重さの俵に包み直し、信州へ運んでいましたこれを何と呼んでいたでしょうか。

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足助で運搬に便利なように俵を包み直して、信州へ馬で運びました。その時、決められた俵1つ分の重さは約何キログラムだったでしょうか?

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塩運搬で栄えた足助には塩問屋がたくさんありました。 江戸時代後期の天保年間(1830~44)には、足助に塩問屋は、何軒あったでしょうか?

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足助は江戸時代後期、足助塩が代表されるようなり、物資の中継地になると共に、周辺農山村の生産物を商品化する重要な町になっていきました。そのため、足助は宿場町としても大きく発展していきました。元治2年(1865)当時、足助に宿屋は、何軒あったでしょうか?

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中馬街道は、長野の善光寺詣りをする人々が多く通ったところから「善光寺街道」とも呼ばれました。伊奈街道と鳳来寺街道の分岐点にあたる場所には、弘化2年(1845)に立てられた道標(道しるべ)が現在も残っています。この道標(道しるべ)には、どんな文字が彫ってあるでしょうか。

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明治も終わりになって、物資の運搬方法が、馬の背から馬車にかわると、立派な馬頭観音(ばとうかんのん)(三面八臂の典型的な座像)が町の入り口に馬車組合の人々によって建てられました。馬頭観音の像のそばには、約220cm×約55cmの水槽があり、側面には文字が彫られています。馬頭観音のそばにある水槽の側面には、どのような文字が彫られているでしょう?

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足助商工会の建物は明治19年(1886)に建てられました。建設当時から昭和33年までは、商工会ではなく、別の施設として使用されていました。さて、何の施設だったでしょうか。

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足助中馬館は、現在、足助の産業や町並みの歴史を見ることができる展示館として利用されています。大正元年に建てられ、愛知県指定有形文化財になっているこの建物は、当時、何の施設だったでしょうか。

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足助香嵐渓の飯盛山(いいもりやま)の斜面にカタクリの花群生地があります。毎年、3月下旬から4月上旬に、素晴らしい花を楽しむことができます。さて、春を告げる可憐な花の姿からカタクリの花は何という愛称で呼ばれているでしょうか。

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「足助八幡神社」は『足を助ける神さま』として、古くから足助の人々に信仰されており、その信仰を象徴する像が建っています。それは何の像でしょうか。

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足助神社は、鎌倉時代末期に、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の旗をあげ、笠置山に立てこもったときの篭城軍総大将となった三河国の武将である足助重範を祀っています。この時の戦は、歴史上「元弘の変(1331年)」と呼ばれています。彼は別名足助○○重範と呼ばれていますが、○○に入る言葉はどれでしょう。

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今から700年程前、一升釜を下げた老人が現れて、占いから予言まで百発百中という能力を持っていました。そこでたくさんの人が教えを乞いに来たそうです。老人は教えを乞いに来た人たちに、持っていた一升釜でごはんを炊いてふるまっていましたが、一向にご飯はなくならなかったそうです。その一升釜が現在、お釜稲荷にまつられているといわれています。さて、お釜稲荷の大きなお釜の中に奉られているきつねの色は何色でしょうか。